池澤夏樹。相変わらず馬鹿言ってる。

平成27年7月9日(木)    平成25年9月ブログ開始

池澤夏樹。文句ばっか。



平成27年7月7日  東京本社夕刊 第3面 社会面 文化 文芸・批評
終わりと始まり     池澤夏樹
死にかけの三権分立 行政独裁への道粛々と


また池澤夏樹さんだ。
このブログで過去二回ほど取り上げたことがある。
ぼろカスに、馬鹿だと書いた事を思い出す。
遡って確認するのも面倒だ。

今回はどうかというと、これ又ひどい。
それにしても、もういい歳であろうに、反抗期の青少年みたいだ。文句ばっか、非難ばっか、ケチ付けばっか、嘆きばっかよく書けるものだ。
日本人の成年男子として、責任ある大人として、少しくらいは建設的な言辞を吐けないものか。

池澤と言えば、世間で認められたしかるべき物書きでもあろうし、最高学府で学んでもいるであろうに、その意味ではバカではあるまい、なのに余りにも下らない事しか書かないので、ブログ主は一瞬だが、こうも思ったりしたものだ。
池澤は解かってて書いている。知っててバカなことを書いている。何のために?
来るべき日のために。その日とは、支那共産党が日本を支配下に置く日だ。その時には、反支那的態度を取ってきた政治家、文筆家、評論家、芸術家、ブロガー、一般市民諸々全てその度合いに応じて、粛清、追放、制限されるのだ。最高は死刑だ。
池澤は反支那的なことは書いてない。それどころか自民党政権を罵っている。免罪符ゲットだと。

ま、これは等閑視して、ひどい文章の一部を取り出すとこうだ。

憲法とは本来このように国民を国の圧政から守るためのものである。一地方を犠牲にして他が利を得てはいけない。個人の権利を守ると同じように地方の権利も守る。
 それが機能しないのは日本国の司法府が憲法判断を逃げているからだ。
 九十五条違反と提訴してもまともな判決は返ってこない。最高裁は砂川判決で、日米安保のような高度に政治的な問題は「その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」という判例を作ってしまった。
その根底には日本国憲法と日米安保条約の間の矛盾がある。辺野古はそれが露骨に現れる場である。七十年に亘(わた)って変わらぬ米軍支配。

 しかし日本では国の根幹に関わる問題で司法府が憲法判断を放棄してしまった。一九九七年の段階で九十五条は死んだ。今は九条が死にそう。
 最近になって立法府も死にかけてきた。民意を反映しない選挙制度が一強多弱の体制を生み出し、それにうんざりした国民の無関心が投票率を下げ、全国民の二十四パーセントの票を集めたにすぎない自民党と公明党が絶対多数になった。しかも議員の多くは党の方針に逆らえない若手の陣笠くんたち。かくして国会はヤジと手続きの機関に堕した。

 今の日本は行政府の独裁という状態である。
 集団的自衛権についての審議が始まるはるか以前、この四月三十日に安倍首相がアメリカで、この法案の成立を約束し「日米同盟はより一層堅固になる。この夏までに成就させる」と宣言した。
それでも国会は立法府を侮蔑するあの発言を問題視しなかった。本来ならばあれだけで内閣不信任の動議が出され、場合によっては解散、総選挙だったはずだが、そよとも風は吹かなかった。国会は行政追認の大政翼賛会と化した。

 既に司法なく、今また立法なし。日本は三権分立で運営される民主主義国家から行政独裁へと、途上ならぬ途下の道を粛々と歩んでいる。三脚のはずが一脚では立てない、主権在民という地面に穴を穿(うが)たないかぎり。
 というところまで来て、さすがに理性が働きはじめたか、憲法学者三名揃(そろ)っての違憲論が政権の暴走にブレーキを掛けた。世論調査によれば、安倍首相の説明が不充分だと思っている国民が過半数。
実際、あの説明は論旨の骨もないぶよぶよの代物で、公明党も困惑している。
 学者の意見や国民の声で強行採決が阻めるか。それはそれでこの国の成熟を示すものだろうが、三権の方はどう修理すればいいのだろう。


と、見事に文句ばっか。

そもそも憲法をどう考えているのか?
確かに、池澤も言うように、「憲法とは本来このように国民を国の圧政から守るためのものである。」と言えはする。
だが、憲法は日本国民のための、国内でのみ通用する規範、日本人同士の約束事、了解事項、国の運営上の基本理念に過ぎないのだ。
過ぎないということは、日本人以外の国民にとっては知ったこっちゃないということなのだ。

憲法前文にこうある。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。

ブログ主はこれを読むたびに、違和感というか恥ずかしさを感じるのだ。相手の気持ちも考えずに一方的に「君は素敵だ。好きだよ」と告白しているみたいでさ。
愛の押し売り。バカだよ。ブログ主は諸国民の公正と信義なんか信頼してないっての。

そして、とりわけ、諸外国に関係すること。正に戦争、国防については、条文通りにはいかないのだ。条文を守れば良いというものではないのだ。
だから当然、個別的自衛権は認めて、そのための戦力保持は憲法違反ではないとしたのだ。

さて、集団的自衛権だ。
これは当然認められるというより、もう既に認めてしまっているのだ。
それが日米安保条約だ。
これによって日本は、アメリカに言われるままにアメリカ軍にくっついて世界中に出かけて行くことまではしてないが、集団的自衛権を行使しているのだ。
日本国憲法施行は1947年。いわゆる日米安保条約締結は1952年。
9条がありながら、米軍の日本駐留を認めたのだ。基地用地を提供したのだ。
それを今更集団的自衛権は憲法違反なんて言えたものではない。

そしてこの憲法違反は日米安保条約が存在する限り続くのだ。
池澤の、

日米安保のような高度に政治的な問題は「その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」という判例を作ってしまった。
その根底には日本国憲法と日米安保条約の間の矛盾がある。辺野古はそれが露骨に現れる場である。七十年に亘(わた)って変わらぬ米軍支配。


なんてのは全く無意味な文だ。
憲法9条を振りかざして、世界という世間を渡っていくことなんかはなから出来ない相談なのだ。
日米安保がある限り、9条や95条はないがしろにされるのだ。
日米安保があるのに憲法9条を持ち出す。それこそ偽善なのだ。
憲法9条を守ったので日本は70年間平和でした。これこそ偽善なのだ。

池澤のこの文章は「終わりと始まり」という。
このお題にふさわしい文章を書いたらどうか。
少なくとも「始まり」は、日本敗戦。アメリカに敗れ、占領され、統治され、憲法を作らされ、検閲をされ(進んで受け入れ)、人心改造され、未だに軍の駐留を認めていることも含めて属国状態だ。
願ったり叶ったりだが、アメリカ圏の一員だ。
しからば「終わり」は何か。ブログ主が答えるまでもないであろう。

死にかけの三権分立 行政独裁への道粛々と
についての反論は、またの機会にさせていただく。取り合えず、時間切れだ。



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昭和20年(1945)年敗戦の年生まれ。
小学生時代からの朝日読者。

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