三島憲一  WEBRONZA バカ朝日(三島憲一さんよ、日本国民を辞めれば?)

平成28年(2016)4月11日(月)    平成25年9月ブログ開始      

三島憲一 WEBRONZA バカ朝日(三島憲一さんよ、日本国民を辞めれば?)




ここの所、忙しいのと、バカ朝日本紙に喰い付けるような記事が見当たらなかったので投稿できなかったが、何かの拍子に「WEB RONZA」なるものに出くわし、以下の記事を読むことができた。

WEBRONZA  4月4日 
政治・国際
「君が代」とは別の「第二の国歌」があれば理想だ
野球観戦に耳栓は持って行きたくない   2016年4月4日
三島憲一


書き手の三島憲一さんとは、
大阪大学名誉教授(ドイツ哲学、現代ドイツ政治)
大阪大学名誉教授。博士。1942年生まれ。専攻はドイツ哲学、現代ドイツ政治の思想史的検討。著書に『ニーチェ以後 思想史の呪縛を超えて』『現代ドイツ 統一後の知的軌跡』『戦後ドイツ その知的歴史』、訳書にユルゲン・ハーバーマス『近代未完のプロジェクト』など。1987年、フィリップ・フランツ・フォン・ジーボルト賞受賞、2001年、オイゲン・ウント・イルゼ・ザイボルト賞受賞。

とある。

全文以下にコピーします。



成熟度を示す球場の観客 
ときどきプロ野球の試合を観戦に行く。多くの球場では試合開始直前に「君が代」が演奏され、スタンドの観客も一緒に歌う。たいていの方は口パクのようだが、演奏前に「ご起立ください」とのアナウンスがある。
小生はもちろん立たない。野球と「君が代」となんの関係があるのだろう。歌うと贔屓のチームが勝つなら歌ってもいいが。
 われわれの子供の頃は、大会社につとめているエリート・サラリーマンたちでも「君が代」を「ああ、相撲の歌か」と言って笑っていた。

 しかし、日本の市民の成熟度を示すのは、10人にひとりぐらいだろうか、あるいは、もっと少ないか、ひょっとしてもっと多いかもしれないが、やはり起立の要請に応じない観客が結構いることだ。
 ビールを飲みながら座ったまま雑談を続けている女性同士の観客もいる。
 いや、成熟度を最もよく示すのは、そういう観客に「なんで、あんた立たないんだ!」「国賊か!」「中国の手先か!」などとなじる人を見かけたことがないことだ。起立しない側も身構えずに、スマホで他の球場のスタメンをチェックしながら、質の悪いスピーカーから流れる音楽が終わるまで気楽に座りっぱなしでいられることだ。
 いろいろな考えの人がいることを皆さん、直観的に知っているのだ。うるさく言えば、価値観の多様化である。
 あるいは、皆さん、早く儀式を終わらせて、そのために高い入場料を払っている試合に入りたいだけのことかもしれない。これも価値観だ。

 昔は、演奏そのものも「起立」もなかった。多分アメリカの球場の慣行を真似たのだろうが、いつの頃からか、すべてのスタジアムではないが、「相撲の歌」だったのが、「野球の歌」になってしまった。
 もちろんこの流れにはある種の力が働いていよう。そして、「国賊か!」という叫びが聞こえない事態がずっと続くと断言できるほど、わたしも能天気ではない。

 早い話がすでに法制化されていて、学校ではさまざまな儀式(日本では学校儀式が、この絶えざる服従の訓練が多すぎる)に「君が代」を歌わねばならないようだ。主義として歌いたくない教員にはいかに苦痛なことだろう。給料をもらうためのうわべだけの服従では、国もなんの利益にもならないはずだが。
 大谷の快速球を、筒香の鋭いスイングを見たさに、面従腹背はしたくない。「良心を売れば野球を見せてやるよ」はないだろう。

「君が代」につきまとう“思い出” 
ましてや、国立大学の卒業式や入学式に「君が代」を歌うのが「国立である以上当然だ」といった文科相の発言は、民主主義社会における価値観の多様化をまったく無視したものだ。

 カネ儲けがすべての人もいれば、カネよりも自分のしたいことをする人もいるし、一流大学を出て国家に尽くしたい(本当は自分の充実感のためだろうが)人もいれば、国家などまったく興味のない人もいる。
 それに国立大学に回るお金は、国民の税金であって、本当は民立大学なのだ。そして民は多様なのだ。
 おまけにこの「君が代」には忌まわしい思い出がつきまとっている。
 日本の侵略戦争を讃えて、いくど歌われたことか。戦争に行かざるを得なかった人々が、時には心からであれ、いくど歌って、そして帰ってこなかったことか。いかに多くの相手国の人々が殺戮されたことか。

 「ラ・マルセイエーズ」のように、圧政に逆らって自由と人権を獲得した「反逆罪」の記憶が「君が代」にはいっさいない。侵略の歴史と押しつけ憲法(現行憲法のことではない、上からの押しつけの明治憲法のことである)の下での「君が代」に距離を持ちたい「不逞の輩」がいることは仕方なかろう。私の小学校のクラスでは2割近く、お父さんのいない生徒がいた。
 フランスの詩人ボードレールは、殺人や汚職の記事に溢れた新聞を朝のコーヒーとともに読める神経を疑う、と述べたが、殺戮の記憶に満ちた歌を初夏の午後の日曜日、プレーボールの前に歌える神経を疑いたい。

 実は「君が代」の曲は宮中雅楽の曲想に、1880年に当時海軍軍楽隊の教師だったドイツ人音楽家フランツ・エッカートが洋楽の和声をつけたものである。西洋のモーニングを着て自衛隊の観閲式をする首相の姿と同じに滑稽と言えば滑稽だ。純粋に日本式なら観閲式には羽織袴で立ち、君が代は雅楽で演奏すればいい。
 エッカート氏はその後一旦帰国したあと、大韓帝国の招きに応じ、その政府に仕えた。1902年には、西洋の別の研究者が集めた韓国の民謡にヒントを得てだそうだが、大韓帝国の愛国歌(今の大韓民国の愛国歌ではない)を作曲している。
 韓国でのある学会で、この経緯について報告をした韓国の若手学者は、「君が代」をカセットで聴衆に聞かせたのちに、大韓帝国愛国歌のスイッチを入れる時にニヤリとしたのを覚えている。
 日本および韓国のナショナリストへの皮肉のニヤリであり、挑発のニヤリだったのだろう。嫌いな国同士の国歌の作曲者が同じドイツ人とは! 音の続け方などに似ているところがあると言えば、似ているのだ。それは、地元の音楽に西洋の和声をつけたフュージョン性に由来している、という発表だった。

オーストリアのポップな「国歌」
 実は日本だけでなく、多くの国で国歌について一致がみられないのは、当然だろう。
 例えば音楽の国オーストリアには、戦後のオーストリア共和国の成立にともなって、公募によりできた国歌がある。しかし、歌詞を見ると高校野球で歌われるどれも似たような悪趣味の歌詞とおなじで、国民の間に根づいているとは言えない。
 スイスもこれまでの国歌の歌詞があまりに古くさくなったので、公募で新しい国歌を作る動きがあるが、先行きは不透明だ。オーストリアにはしかし、1990年頃から「第二の国歌」と言われるポップソングがある。オーストリアン・ポップの第一人者ラインハルト・フェンドリヒによる I am From Austriaという英語のタイトルだ。

 「かつての栄光は終った。地獄も見てきた。名声と栄光はいくらも残っていない。この国の人のことも、ネズミのこともよく知っている。絶叫したくなるほどのバカさ加減も。でもこの国の光も影もわたしのものだ。……」ときついオーストリアなまりのテクストが続き、最後に I am from Austria という2行のリフレインが英語でつく。
 ハプスブルク帝国の栄光、そしてナチの地獄の負の遺産を見つめたこのポップスには、自分の国の過去と現在へのひややかな、しかし心のこもった距離がある。
 「バカさ加減」は、政治のあり方を、コネと情実のまかり通る構造的汚職などもさしているかもしれない。それでも、いくらひどいことがあっても、「私はオーストリア出身」という変えられない事実を引き受けるという趣旨の歌詞だ。
 アメリカでの演奏旅行などでナチスの過去のことを尋ねられているうちに I am from Austria と思いついたと、フェンドリヒは述べている。批判と打ち消せないアイデンティティとの、「いやだ」と「それでもいいよ」との巧みな混在。
 この歌は受けに受けて、私が講師として参加したチロル地方でのサマー・スクールでは夜のパーティで若い人たちが恍惚として合唱していたのを覚えている。

それでも I am from Japan と言える歌を 
オーストリアと言えば、「世界に冠たるドイツ」と誤訳されるドイツ国歌のハイドンによる曲も、もともとはオーストリア皇帝フランツ2世に捧げたものだった。のちにドイツの愛国詩人の歌詞がついた。
 その頃は、ドイツは分裂していたので、「なによりもまずドイツを」「ドイツをなにより愛している」という意味の愛国歌詞となった。だが、現在ではこの歌詞も「自由、統一、兄弟愛」などが歌われている第三聯しか国歌としては歌ってはならないことになっている。
 領土獲得の野望とも受けとれる第一聯(ナチスが事実上の国歌の前唱部にしていた)、ドイツ女性の「操」も歌われている第二聯は、現在ではとんでもない、として歌われない。
 この歌も、当初の意図とは別に、やはりその血塗られた歴史のゆえに、距離を取る人も多い。
 1989年11月9日、ベルリンの壁が開いたその日、緊急に開かれた連邦議会で誰からともなくこの歌が歌われ、大合唱となったが、その時に、緑の党の党員で、後に連邦議会の副議長も務めたアンチェ・フォルマーは「げ〜、なんだってここまでしなければならないの」と隣の議員に呟いたそうである。

 ちなみにドイツ国歌は「国家の公式の行事に演奏される」だけであり、学校や大学では、ましてやブンデスリーガのキックオフの前には歌われない。
 価値観の多様な現代では、国歌などは歌いたい人だけが歌えばいいのであって、血塗られた歴史のゆえに歌いたくない人に押しつけるのは、セクハラと同じだ。そういえば、ナショナリストはセクハラも好きなようだが。
 理想はオーストリアのように「第二の国歌」「隠れた国歌」があることだ。「地獄」も「バカさ加減」も歌い込んで、それでも I am from Japan と言えるような。
 
韓国にも第二の国歌として「アリラン」がある。イタリアではヴェルディのオペラ『ナブツコ』で、バビロンからふるさとを思うユダヤ人たちの歌「行け、わが思いよ、黄金の翼に乗って」が、やはり分裂していたイタリアの当時の状況から今でも「第二の国歌」になっている。これだけはオペラで例外的にアンコールが許されている。
 しかし、美空ひばりも吉永小百合も浜崎あゆみも、そうしたものは提供してくれていない。こんどオコエ君を見に行くときは、国歌演奏に備えて耳栓を持って行こうかな。

(以上コピー終わり)


此のおっさん(いや爺さんか?かく言うこのブログ主もそこいらのオッサンであり爺さんであるが)はとにかく「君が代」と言う国家を歌いたくないのだ。
で、その理由が明確に述べられてはいない。
敢えて探すと、

 >しかし、日本の市民の成熟度を示すのは、10人にひとりぐらいだろうか、あるいは、もっと少ないか、ひょっとしてもっと多いかもしれないが、やはり起立の要請に応じない観客が結構いることだ。

とあるので、歌うことは「日本の市民の成熟度が低い」ことなので、成熟度の高い俺は歌わない、ということであろう。
ではいったい「市民の成熟度」って何なのだ?
それに市民て一体何なのだ?こう言う左翼爺さん(多分そうだろう。この爺さんの著作物を読んでいないので)は、判を押したようにすぐに市民、市民と言うのだ。市民である前にまずは国民であるのに。

国歌を歌うことと市民としての成熟度なるものとは全く関係がない。国民としての成熟度とは関係があるがね。
そして、日本の市民、即ち日本の国民としての成熟度が高ければ高いほど国家に感謝の意を表する国歌斉唱の機会を尊重するであろう。

こうも言っている。

> いろいろな考えの人がいることを皆さん、直観的に知っているのだ。うるさく言えば、価値観の多様化である。

恐れ入りました。国歌斉唱を拒否することは価値観の多様化で、良きことだというのだ。

こうも言っている。

>ましてや、国立大学の卒業式や入学式に「君が代」を歌うのが「国立である以上当然だ」といった文科相の発言は、民主主義社会における価値観の多様化をまったく無視したものだ。
 カネ儲けがすべての人もいれば、カネよりも自分のしたいことをする人もいるし、一流大学を出て国家に尽くしたい(本当は自分の充実感のためだろうが)人もいれば、国家などまったく興味のない人もいる。
 それに国立大学に回るお金は、国民の税金であって、本当は民立大学なのだ。そして民は多様なのだ。
 おまけにこの「君が代」には忌まわしい思い出がつきまとっている。



これを読めば、何のことはない、この爺さん反国家主義者であり国家はいらないとする無政府主義者ではないか。
国家など要らない。民があればいいという、トンでもない無責任爺さんなのだ。
ホントに馬鹿だ。
民主主義も価値観の多様化もそれを尊重する国家であればこそ、その国民はそれを享受できるのだ。
それが日本と言う国なのだ。
その日本に感謝し、国旗掲揚を行い国家を歌う。
この三島とかいう爺さん、どっかの大学の名誉教授だから知識だけは沢山お持ちのようだが、人としてお粗末すぎる。

> おまけにこの「君が代」には忌まわしい思い出がつきまとっている。
 日本の侵略戦争を讃えて、いくど歌われたことか。戦争に行かざるを得なかった人々が、時には心からであれ、いくど歌って、そして帰ってこなかったことか。いかに多くの相手国の人々が殺戮されたことか。



この爺さん、1942年生まれだというから、74歳か。
戦争に行ったことのある戦争経験者ではあるまい。
全て後から学んだ、後知恵ではないか。

>日本の侵略戦争を讃えて、いくど歌われたことか。

などと、見てきたような嘘をよくつけるものだ。
頭は良いものだから学業優秀せっせと勉強し、戦勝国である欧米民族の歴史学者やら内外の共産主義学者やらの書いた物、唱えたものをより沢山、より深く学んだのであろうが、その分より深く洗脳されてしまったのであろう。
この知能低き劣等生ブログ主からすれば、この学者は知能は高けれど馬鹿だ。
根本的な何か、頭の明晰さ、計算能力の高さと言った頭脳の能力の向こうにある何かが欠けているのだ。

>「ラ・マルセイエーズ」のように、圧政に逆らって自由と人権を獲得した「反逆罪」の記憶が「君が代」にはいっさいない。
だの、

>フランスの詩人ボードレールは、殺人や汚職の記事に溢れた新聞を朝のコーヒーとともに読める神経を疑う、と述べたが、殺戮の記憶に満ちた歌を初夏の午後の日曜日、プレーボールの前に歌える神経を疑いたい。
だの、、

>実は「君が代」の曲は宮中雅楽の曲想に、1880年に当時海軍軍楽隊の教師だったドイツ人音楽家フランツ・エッカートが洋楽の和声をつけたものである。

だの

 エッカート氏はその後一旦帰国したあと、大韓帝国の招きに応じ、その政府に仕えた。1902年には、西洋の別の研究者が集めた韓国の民謡にヒントを得てだそうだが、大韓帝国の愛国歌(今の大韓民国の愛国歌ではない)を作曲している。
 >韓国でのある学会で、この経緯について報告をした韓国の若手学者は、「君が代」をカセットで聴衆に聞かせたのちに、大韓帝国愛国歌のスイッチを入れる時にニヤリとしたのを覚えている。


だのの蘊蓄を援用して君が代を貶めるのだ。
この行為を一体何と呼べばよいのか?
賢明な日本国民である読者諸氏は先刻ご承知のはずだ。

そしてあげくが、

 >価値観の多様な現代では、国歌などは歌いたい人だけが歌えばいいのであって、血塗られた歴史のゆえに歌いたくない人に押しつけるのは、セクハラと同じだ。そういえば、ナショナリストはセクハラも好きなようだが。
 理想はオーストリアのように「第二の国歌」「隠れた国歌」があることだ。「地獄」も「バカさ加減」も歌い込んで、それでも I am from Japan と言えるような。

> しかし、美空ひばりも吉永小百合も浜崎あゆみも、そうしたものは提供してくれていない。こんどオコエ君を見に行くときは、国歌演奏に備えて耳栓を持って行こうかな。


と書くのだ。
何んという傲慢な爺さんなのだ。
オーストリアのそれの様な第二国歌のない国の国歌は聞くのも嫌だし、歌ってもやらないぞというのだ。

いっそ日本国民を辞めたらどうだ。
そして「価値観の多様な市民」とやらになればよい。
アンタのその多様な価値観を保障してくれる国が他にあるというのならその国の国民になればよい。
いや、市民だから、無国籍者で良いのだね。



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昭和20年(1945)年敗戦の年生まれ。
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